急いで安全な群れの中へ

要領の悪い子もいますから

20230201

1月終わった〜

年始にいろいろと今年の抱負や目標を息巻いていたが、それどころじゃなかった。

昨年末にいろいろと無茶したツケが回ってきて大反省する月になったな。
そういえば今年の抱負を考える時に過去のメモなどを見返したら、一昨年は年末に大反省するタイミングがあったらしい。
年末年始に人に拒絶されるのは本当につらいと学んだが、ちょっとタイミングが後ろにずれこんだだけで、だいたい1年周期で自分の振る舞いが度を超える、ということかもしれない。

 

なんというか、自分のものの考え方には1テンポの「ズレ」があるな。

ズレっていうか、先のことを考える前に1段階「目の前の状況の対処」を挟むのをよく忘れる。
たぶんターン制のゲームに例えるとわかりやすい。HPが削られており次のターンに倒されてしまう!という状況で、「どう行動したら相手を倒せるのか」をまず考え始めていて、「とりあえず回復」が抜ける。

ただ、目先の状況の対処に追われ続けていつまで経ってもその次の段階に進めない、というのもジリ貧人間のあるあるで、それにはなりたくないよなぁと思う。

目先の対処と、その次を考えた行動と、両方できるといいな。

 

昼間の工事の音がどうにも耐えられそうにないので、意図的に昼夜逆転することにした。

昼夜逆転すると「世の中」から切り離されるような感覚がある。
不安になる時もあるが、今はそれが心地よく感じる。
なんとなく、考えるべきことが絞られて頭がスッキリしてきた気がする。SNSを見る機会を限定したり、人と会話してないのが良いのかもしれない。昼夜逆転していると家から出ようという発想もなくなるし。

何がどう作用して自分の行動を妨げているのか、わからないもんだなぁ。
捉えようとするよりはあえて思考せずに直感に任せるようが早いんだろうな。

20230131

柔らかい場所から動けなくてずっと布団にいる。

住んでいるマンションが外装工事をやっているらしく、マジで窓開けてすぐそこぐらいの場所で轟音が鳴っており、昼間何もできなかった。

とにかくストレス耐性がない。

なんでも長く触れていれば慣れるものだと思っていたけど、ただ耐えていれば大丈夫になるというわけでもないんだな。

むしろ、俺はストレスの多い環境で育ったというより、ストレス耐性がなさすぎるせいでメンタルを壊しているのかもしれない。

人間がちっちゃすぎる。

抽象的な「自分の世界」を大事にしすぎていて、現実の物質世界に目を向ける能力が低く、側から見て信じられないような行動を平気で取ることがある。らしい。

自分の世界に目を向けることで飯が食えるからといって、周囲を大事にできないクズでいることが許されるわけじゃない。
そういう人はいくらでもいるだろうか、俺はそういう自分を許したくない。

実際、同業者には似たような生き方をしている人がごまんといる。
俺以上に物質世界を捉えるのが下手くそな人が無限に見つかる。
全員クズだとは思わないが、この人がこの人の興味に夢中になっている中で、ないがしろにされている周囲の人の存在が頭にちらつく。
自分を許せないでいると人のことも許せなくなっていく。しんどい。

 

経験則上、ここで「真人間になりたい」とか「まっとうに生きたい」といった、漠然として規模の大きい考え事をするのはあまり良くない。

視点をミクロに、目先の状況に対して、今どう行動するか、今までの自分はどう行動していて、それをどう変えたいのか、という、目の前の具体的なことに集中してみる。

やっぱり、「人にどう思われているのか」を気にして、他人にアクションすることを極端に恐れている傾向がある。

そして、「じゃあどう変わりたいのか」の変わる先の、ビジョンが全くない。

「こうなりたくない」がたくさんあって、じゃあその全部を避けた先の何を目指すのかと考えると、途端に漠然としてしまう。

知識不足と経験不足だろうか。
「他人に対して{何か良いアクション}をして{何か良いこと}が起こる」
この空白に何がはまるのかをただ知らないような気がする。

 

「こうなりたい」と思えるようなロールモデル探しは有効かもな、と少し前から思ってはいたし、「この人のコミュニケーションはいいな、こうなれたらいいのにな」と感じる対象はいる。
ただ、そう感じる人が持っていて、自分に圧倒的に欠けているものの方が強く意識されて、参考にしてみようという段階まで行けない、という感覚がある。

すなわち自分に自信がない。そして「自信」とはなんなのかもわかっていない。
これも知識不足か経験不足なんだろうな。漠然としている。
「自分に自信がある人」の振る舞いをまず表面だけでも真似してみて、自分の体感の変化だとか、周囲との間に起こるやりとりの変化などを検証してみるとか…

 

こういったことをずっと考えていると全く仕事に手がつかない。

仕事に手がついていない自分のことが嫌になって落ち込む。外の環境からだけでなく内側からもストレスを感じてどんどん体調が悪くなる。
熱いのか寒いのかわからない。自律神経の異常かもしれない。背中が熱い。

心細い。自分という厄介な人間と戦ってくれるのは自分しかいない。

なので昨日からずっと布団にいる。いい加減起きようと思う。

ヒロアカの轟君

「ペンギンうらない」ってご存知ですか。

あの有名な「Suicaのペンギン」の生みの親、さかざきちはる先生がTwitterで更新されているイラストと言葉のシリーズです。

「うらない」と言いつつ、要するに「今週は試しにこれを心がけてみよう」といった、おそらくさかざき先生のセルフコントロールも兼ねた「例題」みたいなものだと俺は解釈しています。

今週はこういったものでした。

最近かなり切羽詰まっており、そういえば長いこと「推し活」みたいなことしてないなぁというか、今夢中な「推し」っていないなぁ、と思った。

ので、試しに作業から離れてアニメでも見てみるか、と、ちょっとずつ見ている僕のヒーローアカデミアの視聴を進めた。今第49話、3期の真ん中くらいまできました。

 

俺にとっての「推し感情」ってほぼ「劣情」つまり「消費的感情」なので、
こういうガチでアツい少年漫画ってあまり推しキャラできないんだよね…とか最初は言っていたんですが、ダメだった。轟焦凍君が好きすぎる。
てかあんなん好きじゃないやつなんかいないだろっていうわかりやすい人気キャラにハマってしまい、むっちゃ悔しい……。チクショウ…好きだ…

疲弊した人間にとって「推し活」って結構推奨されることのようで、まぁエネルギーを消耗している者が何かを消費することで回復するのはその通りだなと思った。
ペンギンうらないの導きもあるし、そして俺にとっての推し活は「推しを語ること」なので、今日はここで轟君の話をします。(照れ隠しの長い前置き)

 

 

3期まで見てるともう「そういえばそんなだったっけ…」って感じだけど、入学当初の轟君ってだいぶツーンとしてて、クラスメイトのことなんか眼中になさそう…という印象だった。まぁ、能力学園モノには必ずいるよね…ってタイプの、人を見下してるけど実際優秀なので周りも文句は言えないみたいなポジション。

だと思ってたのが、その人を寄せ付けない態度が実は複雑な家庭環境から来ていて、
そして体育祭にて、その「固執」と「ある種のトラウマ」をデクに粉砕される。
それも「僕は君を肯定する」だけじゃなくて「目の前の僕を否定するな」というエゴ感情もちゃんと乗せてくるのが、デクのすごいところだし、同じ苛立ちをかっちゃんも持ってるというのが、いいよね…体育祭…

「そのキャラが一番言われたかったことを主人公が言うシーン」ってどんな作品でもグッとくるけど、この時の轟君、食らった顔は見せるけど、完全に動揺するでもなく、
クールに「ありがとな」と返すあたりも、めちゃめちゃカッコいい………
轟君って全くカッコつけてなくて、ただ性格がひたすらカッコいい人なんだろうなと思う。ずりィ〜〜〜……

「トラウマを粉砕」と書いたけど、実際、一言言われたくらいで子供の頃の全てが帳消しにできるわけじゃなくて、特に嫌いな親父のことはともかく、大好きなはずのお母さんの言葉の方が重く引っかかっていて、そんな簡単に克服できるものじゃないよね、っていう展開も、なんかもう、ウウ…(泣)

 

で、体育祭以降の轟君は、ひとつ大きな「殻」を破った、かなり素の態度で過ごせているんだと思うんだけど、その「素」の良さが尋常じゃないんだよ。
今までのピリピリ度合いはあくまで「父親への反発」が態度に出ていたもので、それがなくなった轟君の、かなり純度の高い「素直さ」が、いい…。

かっちゃんのように特別プライドが高いわけでもなく、かといって自分の能力の高さをちゃんと自負していて、自信もあるので、人に対する警戒心がない。
そもそもがあまり他人に強い興味がある方じゃないんだろうけど、自分にとって大事だと感じた人を抵抗なく「友達」と呼べる(それも父親に「友達が困ってるかもしれねぇ」って言える…)。学食も皆と一緒に食べるし、たぶん週末遊びに誘ったら(お母さんの見舞いとかなければ)普通に来てくれるんだろうな…。

そしてなんだかんだ箱入り息子だった故の世間知らずさ(ついでにデリカシーもあんまない)と、その世間知らずさを特別気にしてる様子もない天然さ。ほんとに何!?
体育祭後の日常寄りのパート(「ハンドクラッシャー」のくだりとか…)が「意外」の連続すぎて、一気にめちゃくちゃ好きなキャラになりましたね…。
ていうかこの「意外さ」にデク達クラスメイトも視聴者と同じようにビビってんのが良すぎる…

 

 

ヒロアカのキャラ造形(見た目と性格両方)って、かなりアイコニックというか、マンガっぽいんだけど、でも「そういうバックグラウンドだったらそうだよなぁ…」とか、「その属性の人って意外とこういうところあるよね…」と思わせる説得力があって、なんかもう、怖いんすよね…。
作者がそれこそデクみたいに、周りの人間に興味がありすぎて、相当な観察・分析をしてるんじゃないか。そうでもないとこんな人数こんな深掘りして描けないよね…。
「リアル」じゃないかもしれないけど、「リアリティ」がある。納得させられる。

 

轟君って一見「個性最強でNo.2の息子でそれ故のトラウマもあってその上顔がいいって、しかも実は天然て、属性盛りすぎだろ!!」って感じるズルすぎキャラなんだけど、物語を追っていくと全部の要素にある程度の裏付けがあるんだよね。
(いや顔がいいのは裏付けとかないけど…「人は生まれながらに平等じゃない」ので…)

それに、側から見て「ズルすぎだろ!」って言われる人間にも、その立場なりに思うことがあったり、気にしてることがあったりして、普通に生きてるわけで。
っていう「生活感」みたいなものが轟君には結構あって、そこがいいなぁと思う。

 

 

そういう「萌え」目線で好きという面もあるんだけど、
俺個人のパーソナリティ的に「微妙な親との折り合いをつける」というテーマはやはり大きくて、そういった面で、轟君良いなぁと思うところもたくさんある。

というのも、親が親として微妙な時に子供として一番キツいのって、「その親と自分に共通点がある」というところで、自分の中にある親に似た部分を否定することで親を否定したい、という心理めちゃくちゃわかるんですよね。

ていうかまだ俺はその部分が整理ついてないなとすら思う。自分のどこを強みとして、どこを親譲りの悪い面として分けるのか、悪い面を良い面として活かす方法はないのか。その「どう活かすか」こそが「(親の力じゃなく)君の力じゃないか」と言わしめる部分なんだろうな。

 

なんにせよトラウマがあって、それが自分の枷になってると感じた時、
自分が凝り固まっているだけなら、ただスッと手放せばいいし、
そうではなく「傷」として残ってしまっている部分は、ゆっくり時間をかけて向き合っていけばいい。
体育祭後の轟君の行動はすごく整理されてるなと思う。
地が優秀だからというだけじゃなく、「自分のなりたいもんになろう」という指針がはっきりしていて、そこに向かう意志の強さの成すところなんじゃないかな。

 

轟君の良さっていうか、轟君というキャラクターはヒロアカの良さが出てるキャラだなぁという話だったかもしんない。
満足したので終わります。ヒロアカ視聴いずれ追いつくから待っててくれ……

強迫を脅迫する強迫

「人によく思われようとすること」あるいは

「人によく思われようとしている、と見られる振る舞いをすること」が極端に苦手。

 

「人に何かアプローチするとき緊張する」とかいうレベルではなくて、「自分の中のタブーになっている」と言っていい。

 

同時に「これは自分の強迫観念であって、克服しなければならない」、という強迫観念、もあって、

アプローチを恐れる時こそその恐怖に打ち勝って一歩踏み出さねばならない!という命令信号が、怖いという恐怖信号とほぼ同時に発動し、ぶつかる。

 

どこにも自分の意志がない。

状況に応じて自動的に発生する信号にただ振り回されている。

その全てが表の行動にできるだけ影響しないよう、ただ停止している。

とにかく何もしなければ、外の世界では何もなかったことと同じになる。

今の自分にはこれ以外に、平和を守る方法がない。これ以上の力は、今はまだない。

 

俺という人間の内部構造が、ものすごく単純なただの幼稚さのように感じる時もあれば、

恐ろしく複雑に絡み合ったがんじがらめの迷宮のように感じる時もある。

俺は俺のことをかなり読み解いて理解してきているつもりだが、まさに"それ故に"、何もわからないのだ。何もわからん。

自分が通ってきた「メンヘラ文化」について

明日、「2010年代のメンヘラ文化」をテーマとしたトークイベントに行くので、
聞く姿勢を作るための準備として、
「自分が10代の頃通ってきた”メンヘラ文化”」あるいは「”メンヘラとしての自分”に影響を与えた作品」について振り返ってまとめておこうと思う。

 

行くイベント「メンヘラ以降ぴえん未満」

https://twitter.com/r2t5y6y/status/1610241351114952704?s=20&t=ny1bVbP4L-Zd_l-x4Th5TQ

 

続きを読む

ありえないほど体力がない

それはもう、ビックリするくらい体力がない。

人生で体力があったことなんてないけど、それにしたって今の体力は、普通に生活を送るのに支障が出る。

 

ちょっと前まではVTuberのクラブイベントに通い詰めていたし、割と都心に出かけて人と会ったり買い物するのが好きな方だったはずなんだけど、今では想像もつかない。

園芸とかインテリアとか家の中での趣味が増えて、外に出かけずに心の栄養補給ができるようになり、わかりやすく出不精になった。たまに通院などの用事で外に出かけると、翌日ほぼ寝込んでるような状態になる。

 

俺は鬱状態に陥って、半年ほど布団から動けなくなるというのを過去2回経験している。

大学3年の2017年と、一昨年の2021年。

家から出ずに、それもずっと横になっていれば当然体力は落ちる。特に一昨年の療養期間を経てからは、年齢が20代後半にさしかかったのも関係あるのか、特に前より体力が落ちているのを感じる。

 

以前は身動きが取れない様な体調不良といえば、ほとんど精神由来のものだった。

とにかく体が重い。椅子に座れない。ペンが持てない。

逆にそのせいで大した作業時間を取れていないので、絵描きの割に肩も腰も全く痛めておらず人に気味悪がられるくらいだった。

それが去年ぐらいから、肩を揉んでもらって絶叫する人になってしもうた。どうして…

 

まぁその分、昔より精神的な負荷による症状はかなり減ったと感じる。

ストレスの外的要因から距離を取るのもそうだし、自分で自分を追い込む強迫観念をひとつずつ手放す"治療"が、上手くいっている。

肉体の衰えと、精神負荷の回復とのグラフが、どこかで交差して、出てくる症状が変わり、やるべき対処も変わった、というところか…。

 

 

 

俺は「自分は常にその時できることは全てやり、どんなに側から見ておかしいとかやらなきゃいけないとか怠惰だとか言われても、その時できないと感じたことはやらない」という姿勢を十代の頃から貫くことで、過去の自分がやらなかったことの負債が返ってきても、反省はすれど後悔はなるべくしなくて済む、という人生設計をしている。

あまりに理想が高く、「もっとこうしたかった」の「もしこうできていれば」を考え始めるとキリがないので、編み出した方法である。

 

鬱で寝込んだ時期、そこまで限界を迎える前になんとかなったかというと、当時の自分には無理だったと思う。挫折を経ることで成長した部分も大きい。

その頃から少しでも体力作りを意識していれば…みたいなことも考えるけど、当時の自分にそんな余地はなかっただろうし。

 

だから悔やみはしないが、だからといって今家から出れないのを仕方ないと諦めるのも性に合わない。

遠回りしたけど、別に、今から普通に体力作りをやればいい。というだけの話。

 

とはいえ、今の体力のなさは本当にありえない域なので、「体力作りのための体力がない」みたいな問題を見て見ぬフリするわけにもいかない。

自分を「"普通の"体力がない人」と同じように考えてはいけない。

いっそ「要介護老人がせめて寝たきりにならないように、毎日ちょっとだけお散歩する」くらいのレベルだと思った方がいい。お散歩、始めてみようかな…

 

あと「疲れたらちゃんと休む」が何より大事だなと思う。鬱病になるまで自分を追い込みがちな人間の最大の難関。

「休む」って、なんなんだ…

 

試練

あれもちゃんとやりたい、これもいい加減放置せずやりたい、と考えていたら、ものすごいマルチタスク状態になってしまった。
作業そのものひとつひとつは難しくないが、考えるべきことが多すぎて、頭が狂いそうや

 

やりたくもないことを強要されてるわけではなく、「余裕がないからで何もかも諦めるのがもう嫌だ」という一種のわがままを通そうとしている状態だから、
この忙しさによるストレスの矛先がない。

やりたいのも自分だし、できないのも自分だし。おかしくなる〜

やりたいことの難易度が高いのは自分のせいじゃなかったりするが、根っこが「自分がやりたいから」なので、「仕方ないな」で諦められない、諦めたくない。

でもつらい。なんでだよ、という問いが全て自分に返ってくる。わけがわからないよ〜!

 

とにかく無限の「強さ」が必要になる。

物理的なことを人に協力を頼むにしても、最終的に全てを判断し選択するのは自分だから、判断力を失ってはいけない。

自分で自分に試練を課している。もうこういうことで理想が折れて中途半端なまま全部がズルズル進む人間のままいたくないなら、やるしかないぞ。

 

でも別にここまで追い込まれてるのとか、中途半端にならざるを得ないほど消耗させられてること自体は俺の責任じゃないし、それはムカつくな、とも思う。

じゃあ消耗したままでいいのかというと、そうじゃないので、そこは「消耗し続ける代わりに困難はない」か「困難がある代わりに消耗を断ち切れる」かの選択で、自分が後者を選んだという話だから、やっぱり自分の意思だから自分の責任なのだ。

 

「やりたいからやってる」ってところを見失わないようにしないと、人に当たり散らす人になるから気を付ける。そういったセルフコントロール含めて、責任を持つ。