急いで安全な群れの中へ

要領の悪い子もいますから

20230328 修行期間

引っ越しが来月の半ばに決まった。

今の家での不満足な暮らしもそれまでの辛抱となった。

 

ストレスが多過ぎて、諸々状況を把握している知人の家に定期的に逃げている。ただ居候のようになってしまうのもよくないし、絵の作業などは自分の部屋でないとできない。

ストレスへの忍耐力を鍛えるという意味でも、イヤになったらすぐ逃げるのではなく、ある程度予定を決めて行き来するようにしている。

 

「この日までは耐えよう」と決めた日の2日前くらいから体が根を上げ始める。

つくづく根性がないな…と思うが、ここで無闇に自分を責めても仕方がない。

「耐える」スキルとは「受け流せるようになる」スキルなんじゃないかと思うので、これを深めてみる。

 

自分の中で浮かんだ「仮説」だけど、

人間が抱えられる「ストレス(負荷)」の総量というのは、案外個人差がそんなにないのではないか。

ストレス耐性とは「より多くのストレスを抱えられるようになる」ことじゃなくて、「抱えなくてよいストレスを判断して、的確に発散・または手放す」という技術なのでは。

なんか文字にしてみると当たり前の話のような気もしてくる…

 

日頃から好き放題"人に負荷をかける"ことで自分の負荷を避けているわがまま小僧ならまだしも、毎日悩んでいて定期的に根を上げそうになっているならば、それは「悩みすぎ」というか、「悩まなくていいことまで悩んでいる」可能性が高い。

 

例えば身の回りの他人にずっとイライラしている場合、「一方的にその他人の面倒を見てしまっている」という捉え方ができる。直接面倒を見るという関係は築いていないのに、こちらの内面の状態だけが「面倒を見ている人」に勝手になってしまっている。

「なんでこいつはこうなんだ」という苛立ちの先には「こいつはどうしたらこうならずに済むのか」という、"そいつのための思考"があり、それは本来そいつ自身が考えるべきことだ。

上司とか親とかそいつの身柄に責任を持つ立場でもない限り、おそらく「考えてあげなくていい」ことだ。

 

俺なんか自分の面倒をちゃんと見てくれなかった親の面倒をこっちが見てしまっている状態だ。

こういう「悩まなくていいこと」を数ある悩みの中から選別して手放すという工程が、「ストレスのある環境でも限界にならない(限界までの距離を伸ばす)」ことに繋がるんじゃないか。

 

ストレスの多すぎる環境で育つと「ここから抜け出せば全部よくなる」と考えがちだけど、案外、「全くストレスのない環境」って存在しない。

人間関係や仕事に不満がなくても、急にめちゃくちゃ寒いとか、急に近所で工事が始まってうるさいとか。

「避けられるストレス要因」からはどんどん逃げていいんだろうけど、同時に「ストレスのある場所でもそれなりに過ごせる能力」というのは、きっと未来の自分を助けるよね。

 

自分はその技術を人に丁寧に教わっていないから、教わっている人と肩を並べて生きていきたいなら、キツめの修行があってもいいと思う。引っ越しできるまでのこのもどかしい期間をそれだと思うことにする。

 

20230325 埋まっている記憶

絵を描いていて、少しでも印象に既視感があると不安になる。

パクリだと指摘されるとか、影響受けすぎと揶揄されるとか、訴えられるとか、そういう「自分の立場に不利益がある」懸念、だと解釈していた。まぁインターネット見過ぎた俺のただの不安症だなと捉えていたんだけど、今日、ふと蘇った記憶があった。

 

中学生の頃、当時は漫画家に憧れていて、創作キャラクターを作って名前や設定をつけて描いていたんだが、それを割と周りに見せていて、

1人キャラの名前が、美術部の同級生の名前と似ていて、正確に思い出せないけど、それについて本人から何かしら文句を言われた、という記憶。

似てるのがイヤだとか変えてくれと言われたわけではないのは覚えていて、なんだったんだろう、嫌味みたいな雰囲気だったような気がする。難癖と言うべきか。イヤだけど直接イヤだと言いたくなかったのか。???

あるいは自分が悪い意味に捉えてしまっただけかもしれない。言われた内容は思い出せないが、ともかく「自分が人を不快にさせた」という記憶として自分の中に残っていた。のを、今思い出した。

 

自分の描いたものが何かに似ている、有名なキャラとかよりも身の回りの直接関わりのある人の創作物や外見などに似ること、が、その人を不快にさせるのではないか、という懸念が、その記憶を発端にして反射的に湧いているらしい。

 

トラウマというほどじゃないが、たぶんこういう「意図がちゃんと読めてないがとにかく周りの人間の顔が曇った」という記憶が、俺の脳の中に無数に埋まっている。そして埋まっていることを普段忘れている。

忘れているが、埋まっているそれが、俺の行動にしばしばストップをかける。「なぜダメなのかよく考えたらわからないが、なんとなく抵抗がある」行動がたくさんある。

例に挙げたのは創作のことだが、もっと遍在しているのは日常的な動作で、食事だとかなんだとか、人前でほぼ何一つ"自然に"できない。

 

変に頭が回るせいで、自分が何を気にしているのか、思考だけでアタリをつけてしまえるし、「自分がしょうもない人間だからこういうことを気にするんです」と意味不明な宣言をしてしまうことも多いが、

「なぜこれに抵抗があるんだろう」と直接思考を回す前に、いったん「たぶん昔、人になんか言われたんだろうな」という予測と、「この行動に文句をつけてるのだとすれば相手の方がよくわかんないし、別に気にしなくていいな」という処理の工程を踏んだ方が、健全に近づけるような気がする。

20230319 耐性

最近連日つらすぎて全く冷静じゃない。自分の思考が向かう方向がなんとなく危なっかしいことだけかろうじて認識している。

自分を徹底的に痛めつける理論しか頭にしっくりこない。何故ならどんなに自分がつらい自分は悪くないと喚いても、誰もこの事態を解決はしてくれないから。「自分がやるしかない」という部分にいつまでも納得がいっておらず、自分にめちゃくちゃな重い罪があるのだと思わないと体が納得してくれない。

 

ストレスや困難に対して体がどう反応するかは訓練次第だなと思う。

俺の親は子供が「イヤだ」とか「やりたくない」と意思表示するのを「叱り」の対象とし、「イヤすぎて具合が悪くなる」とか「パニックや癇癪など自分でどうにもならない状況に陥る」といった「状態」を提示すると甲斐甲斐しく世話をする親だった。

わがままな子になってほしくないし、困っているようだったら親としてなんとかしなくちゃ、という思考回路は理解できる。が、人間の責任能力を考えた時にこの養育方法は最悪だと思う。機嫌で人を振り回すことに成功してしまう、これが日常になっていたから、今大人になって困難や不快にぶつかると、まず体が不調を訴えるし、ストレス耐性が低すぎて寒いとか痛いとか少しの不快でその場から逃げ出しそうになる。

 

問題解決のためには責任を切り分ける必要がある。

おれは今からでもなんとかしようと考えている。訓練次第なら、今からでも幼児がやるような訓練を積んでいけばいいのだ。幸いなことにこれらの事情を了承して訓練相手になってくれる(というより機嫌で人を動かそうとする振る舞いが嫌いなだけでもあるんだろうが)人が身近にいるので、甘えさせてもらう。こんなみっともない大人のみっともない修行に付き合ってくれる人がいるんだからこの世は捨てたものじゃない。

というように俺は確かに側から見てみっともない幼稚な人間である。いや、もっと正確に捉えると、「そういった振る舞いを自分で制御できず表出した場合、俺という個人が"みっともない人"だと見做される」と言った方がいい。

つまり制御できてしまえばいい。「制御できなかった場面」をどんどん減らしていずれゼロにすれば、たとえ脳内でどんなに稚拙な回路が渦巻いていようとも、それに人を巻き込まないという行動が選択できれば、俺は「自分のやることに責任が持てる」立派な人間になれる。

 

一方で、そういった「大人としての立場」を成り立たせるために、内側で当分の間孤独に己と戦い続ける自分がいる。最近はこれが暴れ出してとにかく日夜発狂し続けていてつらい。

どうして俺がこんな目に、なぜ自分が戦わないといけないのか、何故誰も助けてくれないのか、稚拙な人格故に「人に責任を取ってもらいたい」衝動が強い。自分で不快を取り除けない赤ん坊が泣き喚くのと同じ。自分が出した糞尿を自分で拭けない赤ん坊。

 

これについては、実在しない仮定存在に全てぶつけることにした。

つまり「現在生きている家族」とかではなく、「過去の環境」に全責任を問い、ただひたすら苦しくなくなるまで憎み続ける。(詳細に考えれば両親が全てではなく教師などにも責任があるし土地柄や時代背景などもひっくるめた"環境")

今の俺が1人で自分と戦うことに対して、ただ俺の溜飲が下がればいい。「なぜ」という形で現れる硬直、思考の軋轢、歯車の軋みのようなものを、「憎しみ」という形で"どこでもない場所"に出力して処理する。感情の処理。

 

あとはこの「処理」を、本当に誰にも見えない場所でできるようになりたい。

インターネットはどんな弱い人間も包み込む泣き言の宝庫だから甘えきりになっている。

最近いい加減アカウントにゴミが溜まって汚れてきたな、みたいな嫌悪感がある。これは俺個人の美意識であり、人のインターネット生活に文句を言う筋合いはない。人の弱さを許せる人が一番強いと思うし。

徹底的に自分に優しくしないという選択肢を俺は俺の理念に基づいて取る。皆さんはこんな病人の言うことに振り回されず、各々の理念に基づいて行動してほしいなと思う。

20230312_いい日

こんな柄の入ったクローバーあるんだね〜

 

 

なんだか今日はいい日だった。

 

田舎の産直所に隣接した園芸店みたいなところ、で、特に何も買わなかったが、久々にじっくり植物を見た。
去年の今頃多肉植物から園芸を始めて、ここ数ヶ月の生活の慌ただしさや住んでいるマンションの工事などの都合で、自分が育てている植物を全て友人に預けている。
引っ越しができたら新居で園芸を再開したいと思っている。ちょうど春が来て植え替えの時期だし、ついでにこういうところで新顔を迎えてもいいな、など考えながら見ているのが楽しかった。

 

引っ越しは内見の際不動産側にトラブルがあって保留になっており、まだどうなるかわからないが、物件の目星はある程度ついており、新居に想いを馳せるのは楽しい。

ベランダで園芸もやりたいし、インテリアも今よりもっと凝りたい。
絵画を制作して売っているんだから、自分も絵画を部屋に飾ってみたいし、他にも部屋に飾って眺めたいと思って買った雑貨がいろいろある。

あとは最近、食事や料理への興味が強まっているので、食器や調理道具を前より揃えたいし、大きい冷蔵庫が欲しいな。

自分の住んでいる千葉県は野菜がおいしいし安い。地産地消(千葉なので「千産千消」とか言っている)を推奨していて、千葉で生まれ育つと千葉の食材に自然と舌が慣れていく。
子供の頃はよくわかっていなかったが、一度上京してみると、地元の産直所の野菜は安いしおいしいんだなぁということを理解する。

 

今は安い賃貸への引越しを考えているけど、このままこのへんの「ちょうどいい田舎」で、所得だの貯金だのの目処が立ったら一軒家を購入する、なんて道を視野に入れてもいいな。
ローンだとか建売りだの新築だのまだよくわからないが、「新しくて綺麗なこと」に特にこだわらなければ、思っているほど高い金額じゃない気がする。
そうしたら庭があって園芸やりたい放題だし、インテリアの幅も賃貸の比ではない。なんなら自分の気にいるように家を改装してしまってもいいのだ。すごい。
自分が想像しているよりもこの未来は遠くないんじゃないか、と思う。それも今後の自分の頑張り次第だけども。

漠然としていてもいいから、こういう「より理想的な暮らし」を目標として見据えることで、目の前の日々のやる気が出る。ということを実感できた、いい日だった。

明日は残り少しの仕事にカタをつけて、確定申告にも手をつけたいね…。

2023030躁の手綱を握る

躁状態の周期に入った時は、いつにもなく気持ちよく入眠した上で4時間ほどで起きてしまうので、すぐわかる。

そういえば躁鬱の薬が切れてから1週間は経っている気がする。

病院に行けずに薬を切らせて過ごすことが定期的にあるけど、鬱のひどさはあまり普段と違いがわからないが、躁のひどさはわかりやすい。

 

鬱の時って、視界が広くなりすぎているというか、今考える必要のないことまで考えに含めるせいで総合的にネガティブな結論を出してしまう、みたいな仕組みで落ち込んでいる気がする。

逆に躁の時は視界がめちゃくちゃ狭い。なんかもう、テンションだけ高くて、何もわからないまま突き進む。

ご飯を用意するとかの単純な日常動作も漠然としたまま、なんかミスりそうな気配だけあるけどまぁいいだろって手順を進めて当然のように汁をぶちまけたりする。手元にピントが合っていないというか、見てるのに見てないという感じ。鬱の時にむしろ過剰に発動している危機管理能力が躁の時は問題を起こしそうなレベルで落ちる。

 

鬱の自分はパニックにさえなってなければ、それなりに判断力があり信用がおけるというか、物事がちゃんと見えてはいるのであとはどれだけ自分を励ませるか、という問題だなと思う。

躁はとにかく信用できない。真面目に判断しなければいけないことには触らせられない。

ただエネルギーだけは満ち溢れて持て余しているので、既に過去の自分が方向性を判断済みで、あとはただ手を動かせばいいというタスクは爆速で処理できる。これは助かる。

しかしこれは発達も関わるのか、常に気が散ってもいるので、「やるべきこと」がシンプルに片付くというわけでもない。ある程度は「やりたいこと」に触らせる必要もある。そして、それはそれで完遂するほど集中が保たず、エネルギッシュな割に何も完成品が出てこなくてだんだんイライラしてくる。

 

扱いが難しい。

とにかく先の予定を立てるだとか、後の自分に関わることはできるだけしない。何をすればいいかわかっているものか、衝動のまま手をつけて半端にやりっぱなしで放置されても問題のないことだけをやる。例えば絵のアイデア出しやラフを描きまくるなどは、完成品にしなくてもいいし、ボツにしても問題はないし、リスクが少なく後の自分に役立てるのではないかと思う。

「エネルギーの無駄使い」をあまり気にしないのがコツなのかなという気がする。これだけ活動的なことは滅多にないので何か「普段やりたいと思ってるのにできないこと」をやり遂げたくなるが、大体完遂しないし、落ち着いて作業できていないので詰めが甘くあまり良い成果にならない気がする。

そうなると、最終的に「どうやり過ごすか」みたいな話になってくる。この段階に来るとつらい。躁が早く過ぎ去ってほしいと思うが、ギンギンに覚醒しているのでボーッと過ごすことができない。今やりたいと思うことをいくら進めても、躁が過ぎた自分から見たら無意味なものにしかなっておらず、今の自分が思い描いている完成品はこの世に出ないまま終わるんじゃないか、という予感がふっと湧いて嫌で堪らなくなる。直接的な成果にならなくても手を動かして考えた経験の方があとに活きると思いたい。

自己肯定のための孤独

「自分をいたわること」ってただ甘やかして優しくすることではないな、と思った。

 

人に助けてもらいたい、優しくされたい、援助されたい、という欲望や衝動はある。

けど、実際にそれを人に求めるやり方がわからない。

というか、「求めなくてはならない」と思い込んでいるだけで、「助けてもらわなくちゃいけない状態だ」と思っているだけで、本音のところは「助けてもらいたい」わけではない。

だから本音のまま人に言う想定を仮にすると「本当なら自分でなんとかしたいけど助けてもらわなくちゃいけないと思う」みたいな、よくわからない主張になる。

 

「助けてもらわない、自分でなんとかする」という選択肢、それを選ぶ自由は存在する。

欲望や衝動は肉体が機能的に叫ぶ信号であって、それをどうジャッジしてどう扱うかは自分の「意思」に権利がある。

肉体もバカではないのでそれなりに心身の危険や維持に基づいて信号を発しているんだと思うが、少なくとも、それに他人を巻き込むかどうかは俺が判断する。

 

「助けてもらわなくちゃいけない」と言う思い込みの裏には「自分には現状を解決する能力がない」という自己否定がある。

助けてくれる人がいる環境そのものは良いことでも、この自己否定が前提にあると、「人に援助してもらうことでどんどん自信を喪失していく」という最悪の状況が出来上がる。

まずはこの自己否定を否定して、「自分には能力がある」と肯定する経験を積みたい。

 

俺はかなり自分に厳しいんだと思うけど、そうある自分のことが結構好きだとも思う。

情動に従って"しまった"過去の行いの全てを「汚点」だと感じていて、もう繰り返したくないと思っている。

「そう感じてしまうのがよくない(厳しすぎる・治療の対象である)」みたいなことを言い始めると、自分の中に全肯定できるものがなくなってしまう。

厳しすぎること自体は事実かもしれないとして、この感覚はいつか変化するかもしれないし、

何より今は「これ以上自分を否定しない、嫌いにならないこと」が最優先だと思う。

 

めちゃくちゃ極論を言えば、「俺たちには自らの命を断つ権利」すら存在する。この自由を損害できる権利は誰も持っていない。

そう考えると、「自分に極限まで厳しくする」というのも、世の中的に推奨されていないとしても選ぶ権利はあるはずだな。

 

"自分の中で否定したいものとの戦い"を、完全に一人で完遂した先に、自分にとっての自己肯定がある気がする。

「慣れ」の走り書き

どんなものも人は慣れる。

「慣れるべきじゃないもの」にも人は慣れる。

嫌だと思うものとか、健康を害するもの、本来人が自分の状態を良好に保つために拒絶するべきものが、拒絶できない状態が続き、慣れてしまった状態がある。

 

そういうものに慣れてなくてしっかりとストレスやショックを感じる人は、健康だと思うし、一緒に過ごしていて、自分の健康のためのヒントをくれる良い存在だと思う。

「そうか、本来それくらい嫌なもので、自分は不必要に慣れてしまっているんだな」と気づくきっかけになる。

 

抽象的に言うとこうなるけど、具体的には例えば、親の言動とか。

健康に生きてる人でも親の言うことが嫌で許せないと思うことは当たり前にある。

「誰でも嫌なことなんだな」「そりゃ嫌だよな、俺ももっと嫌がっていいはずだな」という認識が得られるのはとても健康的だなと思う。

 

親もまた、親の親に"慣れさせられてしまっている"ことが多いんだろうなと思う。ストレスに慣れた人間が人にストレスを与える連鎖は親子に限ったことじゃない。

ストレス過剰な環境でまともにストレスを受けていたら死んでしまうから、適応は生き物として生存のための機能だ。

人間社会は不完全だし、ストレス過剰な環境を根絶することができるわけではない。

全体として不幸の総数を減らすためにできることは、自分が個人として自分の「不必要な慣れ」を自覚して、それを遠ざけて、少なくとも自分はその連鎖の次のパーツにならないよう努めることじゃないだろうか。

ストレス社会とか言われているけれども、言うほど世の中どいつもこいつもストレスに慣れているわけじゃない。交友関係じゃなくても画面越しの人でもいい。健康な人からいい影響を受けられる機会はきっと意外に多い。そんな気がする。