急いで安全な群れの中へ

要領の悪い子もいますから

メンタルヘルスを自分なりに切り分けて分担する

 

生きづらさの「原因の切り分け」と「責任の分担」の話。

 

 

 

自分なんか変だな、という感覚自体はおそらく中学・高校ぐらい、ようは思春期の頃からあって、
自室が与えられて、インターネットのチャイルドロックが外されてから、とにかく検索しまくって記事や文章を読み漁って、
そうやって下手に多感な時期に精神医学系の用語に触れたせいで余計遠回りしてるかもな〜と、改めて振り返ってみるとそう思う。

鬱病躁鬱病統合失調症発達障害アダルトチルドレン、パーソナリティ障害、PTSD、不安障害、強迫性障害、解離がどうの、トラウマがどうの、性別違和、LGBTQ、恐怖症、依存症、自傷行為、自殺願望、希死念慮、うんぬんかんぬん…

実家暮らしも1人暮らしも、バイトも作家活動も、学校生活もオフ会も、孤独も友情も恋愛も、いろんな環境でいろんな状態になってきて、その都度これかもな、別にそうでもないか、なんでもないな、いやなんでもなくはないだろ、みたいな、
全部に当てはまるような気もするし、何にも当てはまってないような気もする。
病院もこの6年くらいで転々としてるし、それぞれの医者がその都度勝手なこと言って、親も勝手なこと言うし、誰を信じていいんだか、でも肝心の自分が一番信用ならなくて何がなんだか。

自我みたいなものを持ってからこの20年ほど、とにかくずっと混乱している。

 

 

ここ数年でやっと、自分の主観的な実感というものを認めてくれる他者が周りに現れて、おかげで心の奥の方で叫んでる声が聞こえるようになって、それで最近やっと、ちょっとずつ整理がついてきた。

まず、精神の病気という概念そのもの、というか病気という存在そのものが、全く絶対的ではなく、人間という意味不明な生き物のさまざまな状態のうち、ある条件を「健康」として、それ以外のものを「病気」と、あとから決めているにすぎない。
特に精神においての「健康」の条件は、はっきりと定まり切らないまま、しかも時代による社会の変化によっていくらでも変動するもので、正直まともに取り合うべき概念じゃない。
本来、どんなに不健康でいようが、いくら苦しもうが、自発的に死に向かおうが、全く自由なはずで、「体も心も健康に保って楽しく明るく生きなきゃ」なんてのは俺という個人の主観からしたら、周りが勝手に言ってるだけのことでしかない。

人生ってのは本当になんの意味もなくて、ないものを探してもしょうがない。
まずこれが前提としてある。

つまり俺たちは完全になんでも選択することができる。

出世コースを選んでもいいし世捨て人になってもいいし子育てをしてもいいしヒモニートになろうが犯罪者になろうが自殺しようが完全に自由。
周りの評価や目指すものを邪魔する存在やどんな刑罰もただの「環境」でしかなく、自分の選択に関与するものではない。
ただ自分の選択によって出てくるメリットもデメリットも、全て自分が責任を取らないといけない。全ての選択肢に良い点も悪い点もあって、いろいろ見比べて取捨選択をしていく。
全員に生まれる前から課される「やるべきこと」なんてひとつもなく、
ただ何かひとつ、「まぁ死ぬのって実際やろうとするとキツいし生きて働くか〜」みたいなピンを「目的」として刺したときに、
そこから「肉体と精神の健康」とか「金銭」とか「社会的信用」とか「他人との良好な関係」とか、「自分の選んだ目的のためにやるべきこと」が自然と導き出されてくる。

つまり、自分の環境や、得意不得意・興味の範囲、主義とか好き嫌いを照らし合わせた上で、「これは自分が選択した道だ」という認識と実感がないと、
ただただ、わけがわからないまま混乱して憤るばかりの日々になる。

 

 

自分が十代の頃からずっと謎に感じていた部分はこういうことだった。
やっと自分の人生設計をするための「土台作り」みたいなものが整ったので、改めて整理することにした。

私は「絵を描いて生きること」を「人生の目的」としてピンを刺した。
そのためにやるべきこととして、「絵が満足に描ける心身の健康を保つ」「お金を得て管理する」「自分の創作的思考や作業環境を他人から死守する」などが出てきた。
そして、それらを阻害する大きな問題として、自分のメンタルヘルス精神疾患がある、という認識に至った。

つまり私が自分の精神面の問題を解決しようとするのは、他人に何か言われるとか一般的にそうあるべきとされているとかの「受動的態度」ではなくて、
「自分のやりたいことの邪魔だから自分でなんとかする」という「能動的態度」なのだ。

 

 

やっと本題に入る感じだけど、じゃあ実際どうやってくのかという実践について。

私の抱える問題を解決するためにまず「なぜそうなってるのか」を読み解いていく必要があるけど、これがすごい難解で思春期に一番苦心した部分だろう。
行動として表に出てくる「症状」だけ見ていると本当にどんな病気にでも当てはまるような気がしてくる。その時その時で出てくる行動は違うし周りの反応も違うけど、自分の内面で起こっていることはずっと変わらない。
医者の言うことや出す用語ってあくまで「見解」なので、診断された病名だけが信用できるとも言い難い。
雑多に掻き集めた知識、過去の診断内容、自分の体感や記憶、とかをまとめていって、現状いったん至った結論はこんな感じ。

生まれつきの【発達障害】(注意欠如、多動性のADHD傾向が強いけど、自分ルールにこだわるASDっぽさも割とある)

両親が不仲な「機能不全家庭」によるアダルトチルドレン的【トラウマ】
(ADHD故に「どうしてこんなことができないの」という叱咤があったと思うし、ASD故に「家の中のルールがわからない」という感覚がより強く出ている気がする)

この2つから日常動作のほとんどに何かしらの障壁があり、恒常的に【鬱状態】にいる
(AC故に自分の鬱を鬱と認められない、抗おうとして悪化させてきたと思う)

症状として出てるもので言ったら「躁鬱病」「パニック障害」「境界性パーソナリティ障害」「不安障害」「強迫性障害」「解離性障害」とかもうなんでもある程度当てはまりそうなもんだけど、現れる症状の元を辿っていくと大体この3つ、
発達障害】【トラウマ】【鬱】に原因が分類できるんじゃないか。
という仮説が今立っている。


この「切り分け」の作業がなぜ重要かと言うと、
対処というか「どう扱うべきか」が全然違うから。

・「発達障害」は治らないし、治さなくていい。むしろその特徴を発揮していった方が「自分らしさ」に繋がるもの。

・「トラウマ」は植え付けた犯人というと親だったり学校だったりの「他者」「環境」なんだけど、それを"今”その場で掘り起こしているのは「自分の脳」である。
トラウマってないに越したことないんだけど、実は「赤信号は渡っちゃいけない」とか、野生動物の「この音や色は天敵がくるサインなので今すぐ逃げろ」みたいな「危険回避能力」として脳に備わっている機能で、
ただ子供の頃と今とで環境が変わったから、もう怖がる必要のないもの(例:相手を不機嫌にさせても自分の生活は脅かされない)を怖がり続けちゃう状態のことを「トラウマ発作」と呼んでいるだけの話。
という仕組みを理解した上で、脳に「もう大丈夫なんだよ」と覚えさせてやることで克服されるもの。実感を積み重ねなくちゃいけないので地道にやる必要がある。

・「鬱」はなんというか、精神とか脳の疲労みたいなもので、とにかくただ休めばいい。
ただ「何に疲れてるのか」がわからないと「どう休めばいいのか(何から離れればいいのか)」がわからないので、トラウマ発作の妨害を潜り抜けながらやることになりかなりダルい。

 

あとは「責任の分担」という意味もある。

というのも、自分は自責・自罰思考が相当強く、これをなんとかしないとマジで死にたさからの自傷行為自殺未遂がなくならないので、「生きて絵を描く」という目的のためにはいろんなものを「自分のせいにしない」作業が必要になる。

簡単なことが他の人と同じようにできないのは発達障害のせいだね。
目の前にいる人の中に過去の怖かったものを見てしまって過剰に怖がってしまうのはトラウマを引き出してくる脳みそのせい。
やりたいことがあるのに体が重くて動かないのは鬱のせい。

という風に責任を「自分ではない何か」に分散させていくと、できない自分を責めて、できないことをできるように自分の体感に抗って余計事態をこじらせる、みたいなことが減っていく。はず。
その責任を「自分をこの状態に追い込んだ他人」に負わせようと思うとマジで危害を加えないと「計算が合わない」ということになってしまって社会的にヤバい(社会的にヤバくなると絵を描いて生きていけなくなる)し、他人に恐怖のトラウマがあるのに他人に害を与えたり憎んだりすると余計トラウマが増えるので、合理的じゃない。

 

 

まぁこんな感じで、自分の精神疾患をどう扱っていくかの仕組みというか、
「方程式」「システム」「回路」みたいなものがやっとある程度整備できたので、あとはただ実践を積んでいくだけ、地道にやっていきましょうなんだが、
このシステムで対応できないケースが既に出てきてるし、さすがに自己責任論すぎやしないかとか、ある程度専門家の心理士とかに監督してもらった方がいいんじゃないかとか、課題や不安点が結構あって、マジでクソだりい〜て感じです。

毎日死にて〜けど生きるって決めたしな〜やるか〜