自己肯定のための孤独
「自分をいたわること」ってただ甘やかして優しくすることではないな、と思った。
人に助けてもらいたい、優しくされたい、援助されたい、という欲望や衝動はある。
けど、実際にそれを人に求めるやり方がわからない。
というか、「求めなくてはならない」と思い込んでいるだけで、「助けてもらわなくちゃいけない状態だ」と思っているだけで、本音のところは「助けてもらいたい」わけではない。
だから本音のまま人に言う想定を仮にすると「本当なら自分でなんとかしたいけど助けてもらわなくちゃいけないと思う」みたいな、よくわからない主張になる。
「助けてもらわない、自分でなんとかする」という選択肢、それを選ぶ自由は存在する。
欲望や衝動は肉体が機能的に叫ぶ信号であって、それをどうジャッジしてどう扱うかは自分の「意思」に権利がある。
肉体もバカではないのでそれなりに心身の危険や維持に基づいて信号を発しているんだと思うが、少なくとも、それに他人を巻き込むかどうかは俺が判断する。
「助けてもらわなくちゃいけない」と言う思い込みの裏には「自分には現状を解決する能力がない」という自己否定がある。
助けてくれる人がいる環境そのものは良いことでも、この自己否定が前提にあると、「人に援助してもらうことでどんどん自信を喪失していく」という最悪の状況が出来上がる。
まずはこの自己否定を否定して、「自分には能力がある」と肯定する経験を積みたい。
俺はかなり自分に厳しいんだと思うけど、そうある自分のことが結構好きだとも思う。
情動に従って"しまった"過去の行いの全てを「汚点」だと感じていて、もう繰り返したくないと思っている。
「そう感じてしまうのがよくない(厳しすぎる・治療の対象である)」みたいなことを言い始めると、自分の中に全肯定できるものがなくなってしまう。
厳しすぎること自体は事実かもしれないとして、この感覚はいつか変化するかもしれないし、
何より今は「これ以上自分を否定しない、嫌いにならないこと」が最優先だと思う。
めちゃくちゃ極論を言えば、「俺たちには自らの命を断つ権利」すら存在する。この自由を損害できる権利は誰も持っていない。
そう考えると、「自分に極限まで厳しくする」というのも、世の中的に推奨されていないとしても選ぶ権利はあるはずだな。
"自分の中で否定したいものとの戦い"を、完全に一人で完遂した先に、自分にとっての自己肯定がある気がする。