急いで安全な群れの中へ

要領の悪い子もいますから

日記:「偉そう」と「偉い」

最近やっと本格的にカウンセリングが受けられることになったので、
自分の育った環境やトラウマについて、心理士に説明するために整理している。

元々自分語りが好きすぎて、常に自分の経験やそれによる現状への影響については何度も言葉にして反芻しているので、それらをただ簡潔にまとめようとしていただけだったのだけど、
その過程で「あんなにショックだったのになぜ今まで忘れていたのだろう」という記憶をいくつか掘り当てる機会があった。

精神科にかかるような人は時折ショックな記憶に蓋をしていて、医師との対話で突然それを思い出してボロボロ泣く、みたなエッセイをいくつか読んだことがあるけど、いやそこまで衝撃的な思い出し方ではないけど、
自分みたいな己を問題視しすぎて過去ばかり見てる人間でも、なんとなく忘れていた嫌なことってあったりするんだなと、ちょっと驚いた。

 

 

思い出したことのひとつに、「偉そう」というワードがあった。

主に小学生くらいの頃、定期的に母親に「なんでそんなに偉そうなんだ」と言われていた。そういえばそうだったな。
特に母親に歯向かって口喧嘩をしていたわけでも、あからさまにふんぞり返っていたわけではない。コラ!と叱られたら反射的に「ごめんなさい」と萎縮して謝る子供だった。

 

あくまで予測だけど、俺はボーッとしている子供だったと思う。

テレビやお絵描きに夢中になっていたり、目に映るものに気を取られて人の話がちゃんと聞き取れていないことがよくあった。
身の回りの誰かが暗い顔をしているとか、自分の言動に苛立っているとかにもあまり気づいていなかっただろう。
最近はむしろ「自分は周りに気を配れない人間だ」という認識のせいで、気を遣いすぎてかえって空回っていることが多い。どっちみち適切なやり方を身につけられていないなと感じる。

 

そうやって何かに熱中していたり、考え事に耽っている間に、いつの間にか母親がヒステリーを起こしていたことがよくあった。

母親の当時の状況も今考えればかなり同情する。
そこそこお金のある家で生まれ育った都会っ子で、結婚して数年である時突然、夫の地元であるド田舎のオンボロ木造家屋に引っ越し、昔から大好きな音楽やアートやファッションなどのカルチャーに触れる場も一切なく、孤独な育児生活を強いられていた。

父親も父親で、その地元の木造家屋というのは父の母方の家系が代々住んでいた土地であり、「家を守る」的な価値観に倣って妻子をそこに連れてきたという背景がある。せめて妻に納得のいく説明をしろよとは思うが、そういうの含めて前時代的な男性像って感じだ。

俺の両親は世代的に「時代転換期の犠牲者」だったのだろう。俺と同年代のいわゆる「ゆとり世代」の親としてかなり典型的な精神構造なんじゃないだろうか。

 

脱線したわ。そういう背景があって母親は当時常に張り詰めており、決して子供を愛していないわけではないが、精神の余裕のなさから、子供に対して「無条件の愛情」つまり「どんなあなたでも受け入れる」という母親としての姿勢を貫くことができなかった。
こういった、「虐待ではないが不適切な養育環境」を指す「マルトリートメント」という用語がある、と先日カウンセリングで聞いた。
「虐待ではないが、不適切」という解釈がだいぶ腑に落ちた。

だから、自分のことに夢中になって母親の様子を見ていない俺は、母親からして、それは本来子供に求めるものではないが、「自分のことを尊重してくれない」存在だったんだろう。
母親の育成環境もまぁまぁお察しなので(俺は母親の実家に帰省するたびにストレスで発狂していた)、母親自身もまたマルトリートメントの犠牲者(これを指す「アダルトチルドレン」という用語もあるけど、字面に微妙なニュアンスがあるからか最近あまり見かけない)で、悪影響の連鎖が起こっているわけだ。

 

母親から咄嗟に出た「偉そう」という語彙、これが思春期の自分をかなり苦しめた。

自我がはっきりしてきた頃の俺は反射的に「ごめんなさい」と発しビクビクすることをやめ、いや表向きは謝っているし、母親の叱る内容について改善しようと努めていたのだが、
自分の振る舞いを直して母親の機嫌を損ねないためにはどうしたらいいか、と考えるにつけ、「母親の言うことには筋が通っていない」「理不尽だ、納得がいかない」といった不満を強めていった。

まぁ当然のことで、母親が自分の振る舞いを叱る基準には「母親の気分」が大きく関わっていて、何がいつどういう場合だとダメなのか、というルールが不明瞭なのだ。
「偉そう」も同じで、「母親が偉そうと感じた時」はこちらが何をしていようが「偉そう」なのだ。

無理だ。この家の中で自分が良い存在でいることができない。
そして、どうしてもそれが「自分のせいだ」とは思えない。
本当に心の底から自分の方が至らない存在で何かを正さなくてはならないと感じるなら、できるはずのこと、例えば今以上に自分より家族の都合を優先するだとかが、できるはずなのに、できない。嫌だ。
自分が嫌だと感じることがどうしてもできない。

この枷になっているのは自分の「プライド」だ、これこそが自分が母親にとって不快な存在になることの元凶で、だから昔から「偉そう」と怒られていたのか。

プライドが高いから自分は最悪だ。死んだ方がいい。死にたい。

この自我が俺の中学時代のほとんどを占めていた。

 

さて、10年ほど経って今。

俺は大学をきっちり卒業して、そこで学んだことを活かして仕事として、まだ社会人として一人前とは言い難いが、作家として生きていく道を自分で考えて選んだ。
並行して、自分の人間的な未熟さが、作家活動にも、それ以外の人間関係にも悪く影響するから、治したい。と自分で考えて決めて、精神科とカウンセリングに通っている。

そういった自分の人生観みたいなものを、時折親しい人に語ると、
「偉い」と言われる。
「正直偉すぎてなんて言ったらいいかわからないけど、ほんとにすごい」みたいなことも言われる。

なんか、納得いかない状況を自分から打開しようとするって、そんなに誰でもできることじゃないらしい。
世の中の結構な人数の人が、嫌だな〜とか、納得いかねぇと思いつつ、「まぁそんなもんか」と諦めたり、「あいつが悪い、環境が悪い、世の中が悪い」と外部に責任を置くことで溜飲が下げられるとのこと。
俺からするとそっちのがすごいっていうか、そうできれば子供の頃もうちょっと楽だったのになとか思うけど。というか今もそれができないせいで毎日しんどいけど。

 

偉い、かあ〜…

どうも、「自分はプライドが高い」ことも、「母親から見て偉そうな態度だった」ことも、それ自体は否定できない事実らしい。
ただ、それが一概に悪いことか、というと別なのだな。

作家業って「自己表現を売り物にする仕事」で、自分のことがめちゃくちゃ好きで、自分という人間の有様が値段をつけた売り物に値する、と本気で信じられないとできない生き方だと思う。
今の俺は「プライドの高さ」を「取り柄」としてうまく活かせているのかもしれないな。

 

俺は「全ての物事には良い面と悪い面がある」という考え方が好きでよく用いるんだけど、
子供の頃の自分は、自分の持っている特徴が環境とぶつかっていたから悪い面ばかり目立っていただけで、特徴の良い面が発揮できれば良いものとして扱うこともできる。そういうことか。

あるいは単に、同じ特徴でも良く捉えてくれる人と悪く捉えてくる人がいて、それはただの相性の問題だけど、だから良く捉えてくれる人、俺を「偉そう」じゃなくて「偉い」と褒めてくれる人との関わりを大事にしていけば、
それが「良い関わり」になって、「良い人生」にしていける。のかも。